絶望の底から青い空を見て・・・

2014年12月31日
私の目を見て医師は、言った。
「24時間の命です。」
2015年1月20日最愛の夫は、死んでしまった。
死・借金・裏切り・崩壊・人間不信…
今、独り…目に見えない何かと闘いながら生きていく…。
逢いに逝けるその日まで…。

答えは…あいしてる⁈

「待っていてくれ…」

10番診察室の前で…。

この日から3日後、主人は肝性脳症の症状である昏睡状態に入る。


実はこの日の二日前に、


と…だけのメールが届いた。

(ゴンとは、彼が私につけたニックネーム。私がジュゴンのように何でも根こそぎ食べ、大きな体で我が物顔に生きている…姿がジュゴンのようで。そのジュゴンの「ゴン」をとっもの)


私を呼ぶ時

「ゴーン」と。


私も

「はーい」と答えていた。


この後…何が言いたかったのだろう…と、携帯のアルバムの中からこの写メを見ては今でも考える。

実は、このメールが届く前日に私は泣き泣き主人に、主治医より12月31日に「24時間の余命宣告」があった事…を話した。


「死」を覚悟していた事を話した。

葬儀屋さんはどこにするか義父母と話していた事を…話したのである。


哀しくて…悔しくて…

でも…その時は・・・

息をしている貴方のことが嬉しくてしかたなくて…。


もちろん!!話すからには、

死の宣告を受けながら、元気にしている主人に対して、「死」は回避されたと信じたから…。

「生きる」と信じたからだ。

生き続けると思ったからだ。


だから・・・話した。


「ゴン…」

この後…何が伝えたかったのだろう…と、よく考える。


今更…聞けやしないし…。


その答えが見つからないから…


私は今でも、10番の前で座って待っているのかもしれない。主人が診察室から出てくるのを…待っている。

主人が、私に言ってくれる言葉を待っている。


聞きたいよ…


ゴン…のつづき・・・が…。

受け継がれる心

今日は先日の丸一日の休日のお返しに、三人(娘夫婦となっちゃん)に、久しぶりにお出かけの時間をプレゼント。

しかしそれは、授乳から次の授乳までの限られた3時間という短い時間だった。


私はゆりちゃんと2人でお留守番。眠っているゆりちゃんを起こすまいと、あの手この手で作戦実行。


母もそうだった。


母は1ヶ月半一緒に生活してくれた。(私は里帰り出産はしていません。当時今、義父母が住んでいる家に主人と2人で住んでいました。そこへ来てくれたのです。義父母は、少し離れた場所に家がありました。)出産後33日間は安静にするように…と、床上げを済ませお宮参りまで…一緒に行った。


私は、母がしたように娘にしているだけだが、母は3人の娘を同じように支えてくれた。

『偉大』な人だった。

愉快な母でもあった。

いつも台所に立って、料理を作っている姿が思い出される。


私は、母の真似はできない。


時々母を思い出す。

生きていたら・・・

まだ平均寿命に達しない歳だ。そんな母が私にどんな言葉で勇気をくれ、諭してくれ、この哀しみを包んでくれただろうか…。悔しくてならない。


母のようにはいかなくても、不思議なもので「母がしたように」「母と似たように」している私がいる。姉も妹もそうだ。知らずまに親としての心と行いを受け継いでいる。


ゆりちゃんが、


泣きはしないかと…

お乳…と、泣やしないかと…


ずっと、3時間抱っこして過ごした。


お母さん!

私も今…お母さんにぎゅーと抱きしめられたいよ。

強がっていました!

前向きになるように…

前向きになるよう戒めるために…

前向きになるべきなんだろうと…


もう…前向きにならなくては…と…

いつまでも変わらないのはおかしいのかも…と思って…


だけど、


実はちっともあの日から変わっていません。


まだまだ…以前のようにはいきません。


いくら一人で生活はできるようになっていても…

一人で過ごす事に平気になっていても…


なんとか生きていけそうな自信というか気持ちにはなっていたのですが…


私の時間は、ほとんど止まったままでした。

まだ…

ただ息をしているだけで…

苦しくなる時があるのです。