絶望の底から青い空を見て・・・

2014年12月31日
私の目を見て医師は、言った。
「24時間の命です。」
2015年1月20日最愛の夫は、死んでしまった。
死・借金・裏切り・崩壊・人間不信…
今、独り…目に見えない何かと闘いながら生きていく…。
逢いに逝けるその日まで…。

どこへ行けばいいのだろう…

この街に来て…

あっちゃんと暮らした街を離れて…

もうすぐ1年が過ぎる。


昨日、園長に呼ばれて

「義香さん。この学園に来られて1年が経とうとしていますので、契約継続の手続きをしてもらいたいのです。」


「はい…」


「5年間勤めると、後は5年毎の契約になります。」


「はぁー…」


「まだ、地元へは帰られませんよね。」


「あっ・・はいっ」


書き慣れない住所…と、名前を書いて、今日の日付を書き捺印。


昨日は、「遅遅」と言って、午後2時から午後10時までの勤務だった。真っ暗な中車に乗り込み、音楽を聴きながら帰宅。


その路…・・・


何故か…涙が止まらなくて…


いつのまにか…・・・


あっちゃんの名前叫んでいて…。


嫌いではないけれど、この街は…

寂しさには耐えられるようになったけれど・・。


虚しくて…


遠回りして帰宅した。

シェア

娘の携帯に…


雨の被害は大丈夫か?というラインやメールが幾つも届く。


次々と…届く。


その度に…

自分の街は大丈夫なこと。しかし隣の街は、ライフラインが止まってしまっていることや道路が寸断されていることなどの状況を知らせている。

そして今…自分にできることは、その情報をシェアして友達から友達に広める事だと言い、正しい情報を集め、いち早く知り合いに知らせている。

必要な物を必要な所に届けてもらう為、そして沢山の人に知ってもらう事が大切なんだと…なんだかすごい使命感を持ってやっている。


時代が変わればこうも…違うのだ。


すごい力だ。


娘にすれば、3月に生まれたばかりの乳児を持つママ友(中、高の同級生)から、ミルクを作りたいけど、給水場は6時間待ちというメールが来たことをきっかけにこの小さな画面の大きな力を使って自分にできることをしたいと考えたらしい。

私も思わず・・

しり合いに久しぶりメールを送ってみた。


「大丈夫かぁ!」…と。


すると…直ぐに返ってきた。

100%の割合で返ってくる。


そして…誰もが、「 私は大丈夫。それより…義香さんは大丈夫なの?」と返ってくる。

電話も直ぐにかかってきた。


切れてしまうのは…

縁でもなんでもない。人の心なのだと…気付かされた。


結婚して30年近くあっちゃんと過ごした町を捨ててここに辿り着いた。私は捨てたつもりだった。

人も仕事も…過去も・・・

だけど…どこかで繋がっていた。


それが少し嬉しかった。


私のことなど忘れてほしいし、私も何もかも忘れたいと思って出て行った。誰にも相談せず一人で決めて…。


本当は、知ってほしかった。

本当は、伝えたかった。

この哀しみを話したかったのだ。


シェアして…ほしかったんだ…。


全国各地で被害に遭われた方々…もしかしたら大切な人を亡くされた方も沢山いらっしゃると思います。悔しくて…哀しくて・・仕方ないでしょう。心の回復にはまだまだ相当な時間が必要だと思います。

先ずは、どうか、一日も早く安心して落ち着ける場所が確保できますように・・・どうぞ、お身体をご自愛くたさいませ。

私の最期

夜になると考える。

母が他界した年齢。65才。

母は最後の最期まで私の理想だった。


母の様に…この世を去りたいと…いつも思う。


母の生き方は、真似できない。

専業主婦であり、地元の仏教婦人会での活動、若い頃から日本舞踊を習っていた為地域の行事では、ボランティア活動の一環として、申し入れがあればいろいろな場所で踊りを披露した。小さな地域ではあったが、地域の中心的人物でもあったし、人の為に飛び回ることを喜んでやってのけた人だった。


私にはそんなこと…できなかった。

おそらく…これからも・・・

母を想う時・・・

その生き様を羨ましくも想うが、今の私にとっては、その生き様ではなくて…「死に方」を真似したい。


「子どもには絶対に迷惑かけない」 母はいつも言っていた。

母はやってのけた!


遺された方にとってみれば…恩返しの一つもできなくて情けなく苦しい。母の死は私の体の半分がなくなったようなそんな思いがいつまでもいつまでも続いた。


だけど・・・

母は…

母は突然倒れ、

姉の胸の中で呼吸を止めた。


蜘蛛膜下出血だった。


1週間…脳死状態が続いた。


私は…母の様に逝きたい。