絶望の底から青い空を見て・・・

2014年12月31日
私の目を見て医師は、言った。
「24時間の命です。」
2015年1月20日最愛の夫は、死んでしまった。
死・借金・裏切り・崩壊・人間不信…
今、独り…目に見えない何かと闘いながら生きていく…。
逢いに逝けるその日まで…。

私も半分なくなっている。

「死」…

人はみんな死ぬ…

私も…。

そして、そばにいる大切な人も…

「死」は恐怖だった。

「死」は残酷だった。


「死」は容易く起こることではないと思っていた。

時々…

告別式の案内を示す看板を車の窓から見る。達筆な字で書かれたその名前…。

そこに、まさか…


母の名前が…

父の…

そして、主人の名前が書かれることがあろう…とは思ってもみなかった。


大切な家族は「絶対に死なない」と思って生きてきた。

家族だけは、一番身近にいる人達だけには「死」が訪れるはずがないと…訳もなく信じていた。


だから…母の死はショックだった。


本当にあるんだ!

私の身に起こるんだ!

まさか!ってことが現実に…って!


母は、自分が死ぬことで私に教えてくれた。


遺された者の苦悩を…。

母の死後…7年後・・・父が他界した。


そして5年後…主人が死んだ。


私も半分…死んだ!


本当に起こるんだ!

伯母の死と涙の訳

ピアノの発表会は、毎年オーダメイドのワンピースを着た。一緒にレッスンを受けていた妹は、母が用意した既製の服を着ていた。


小学校6年生まで、毎週土曜日は伯母の家でお泊り。料理上手な伯母は、あの頃で言うハイカラな料理を作ってくれた。多分フォークとナイフの使い方も伯母に教わったのだと思う。

土曜日の夜は食べて飲んで好きなだけテレビを見て…お姫様気分だった。


母は末っ子の次女。

伯父は長男。


伯母は、その長男である伯父の妻だった。伯父より年上らしいが、年齢も家族のことも結婚の馴れ初めも…詳しいことは全く知らない。

それでも、

私にとっては、

第二の母だった。

私が結婚して母親になった頃聞かされたことだが、「私を養女に…」っと言う話もあったようだ。もちろん母が強く首を縦に振らなかったらしい。


その伯母が他界した。


葬儀など…全てのことは終わっていた。「伯母は、認知症になり、妹がいる北九州の老人ホームで生活していた」と…姉から聞いた。

とても悲しいことなのに…

その時、

私は涙ひとつ…出なかった。


誰よりも一番私を可愛がってくれたのに…あんなに…甘えて・・・優しくて…大好きな伯母だったのに・・。


涙が出なかった…。


思い出だけじゃ泣けないんだ!


一緒に過ごした・・・その…


夫婦であれ…

家族であれ…

その連れ添った過程が…


泣いて、怒った数だ。


悩んで…共に笑った数だ。


1日の中で気になった時間の長さだ!

子どもの頃は…

母の事が一番気になった。母のことが一番好きだった。


恋する年頃の時には…

私の心の半分以上を占領していたのは恋人だっただろう…。


そしてしばらくは…主人に夢中!

子どもができると…

子どものことで頭がいっぱい…!

仕事をしていても気になる。

私の頭の中を占領する時間やその大きさが…私の喜びそして、哀しみに比例する訳だ。

分からなかったけれど…


私の心は、こんなにも主人のことでいっぱいだったんだ。

生きていた時に気づけばよかった。

夜な夜な

私の愛し方…。


求めない!

懇願しない!

目の前にいるように…

できれば…涙を流さず…

(一度流すと、止めどなく流れ続けるから・・・)


写真を胸に抱き…


「待っててね!

こっちの心配事がなくなったら直ぐに逝くから…」って・・・


あっちゃんの頬を撫でながら…

冷たい写真立てを撫でながら…


我慢して…

できるだけ微笑んで…。

だけど…

ありがとうはまだ言わない。

だって…

あっちの世界に逝ってしまったことを心から許すことはできないから…前ほど恨み辛みは言わなくなったけれど…。


まだ、感謝の気持ち…よりも、私を一人遺して逝ってしまったことへの憤りの方が大きいから…。


独りぼっちの部屋…

座っていても…

ベッドに横になっていても…

見えるあっちゃん(遺影の4分の1の写真を白い枠の写真立てに入れている)に向かって…


話しかけたり…

時には抱きしめたり…している。

きっと…

あっちゃんも…


時々私のそばに来て、


私と同じようなことしているんだと思うんだ…。