死別差別
愛おしい人が亡くなってしまった…その壮絶な哀しみは同じなのに…
主人を亡くしてどのくらいの月日が経った頃だろうか…。私の心は崩壊して醜い悪魔になっていた。(もともとその要素は存在していたのだろう)
哀しみの中…私は・・
あなたは、
まだ若いから、これから先には新しい人生が始まるかもしれないよ。
あなたには、
毎日一緒にいる子ども達がいるじゃない!その子ども達があなたを笑顔にしてくれるはず…。
あなたには、
夢中になれる仕事がある。それだけで気が紛れるよ。周りには仲間や友だちがいるじゃない!
あなたは、
お母さんが生きているでしょ!お母さんの胸で泣けるじゃない!一番の理解者だと思うし、寂しくなったらお母さんの側に行ける…。
私は…
借金で家を取られ、主人名義の物は貯金も車も…何もかも・・取られちゃった…し・・
両親も…。
落ちて落ちて…落ちていく…。
人と比べる…ことではないのは分かっている。でもいつも悲劇のヒロインに成りすました。私が一番哀しいんだぞー!って…。
だから、そこから…何としてでものし上がろうと思った。
主人が亡くなった年の夏、沖縄に一人でプチ移住した。沖縄に永住しようかとも思った。しかし3週間で家に帰った。
主人の死後2年を過ぎた頃…仕事と居場所を変える事を決意した。
そして今こうして…
一人でアパートを借り生活している。
お陰で、娘にはすぐ会えるようになった。仕事も安月給だけれど見つけた。満足した?生活ではないが…。
これが正解なのかどうかもわからないが…。
ただ…あの場所(嫁いで暮らした家)にいるより気持ちが楽になった。
『土地・資本・労働が生産の三要素』ならば、
『家族・仕事・住居が幸せの三要素』なのかもしれないと…思った。
