絶望の底から青い空を見て・・・

2014年12月31日
私の目を見て医師は、言った。
「24時間の命です。」
2015年1月20日最愛の夫は、死んでしまった。
死・借金・裏切り・崩壊・人間不信…
今、独り…目に見えない何かと闘いながら生きていく…。
逢いに逝けるその日まで…。

時間が逆に回る日・・

  今日は命日…

 10年経っても…

   この日だけは・・

      時計が逆に回る。

 

  主人を亡くしたあの日の私に

         戻ってしまう。




  10年…

   何が変わったんだろう・・・


 変わったさっ!!

     随分変わった・・・  


   すごく変わった!!

  だって…

 娘が!

  二児の母になってるじゃないの!

  しかも長女は、四月から新4年生!

 




 だけど…



 今でも…


  名前呼んだら…

   そばに来てくれそうな…

  振り向けば…

   そこに笑顔でいてくれるような…


 両手を広げれば…

  ぎゅってしてくれるような…


 まだまだ… 

 まぁだまだ私の近くにいるような気がしている。


   生きていた時のように…。

 

 いつの頃からか…


 名前も呼ばなくなったし・・

 姿を探すこともなくなったし・・


 「いないこと」を哀しむこともなくなった。

 

 私は1人でも上手に生活することができるようになっていたよ。


 10年・・・



    生きてきたよ・・・

大きな二つの想定外!!

10年間を無駄に生きてきてしまったのだろうか・・・。

   そう思いたくはないが…。

       時々…そう思う・・・



 主人の死は、想定外だった。



 その死後をどう生きるかが、私に課せられた使命であり、私自身の人間性であったり、力量(克服力、創造力)が試されたりする時間であったのではないだろうか。


 そう考えれば、

 私には褒められるような人間性もなければ、生きるための力量も大したことはなかったと言うことになる。

 とは言え、10年を過ごした。  


 ちょっと⁉︎失敗してしまったが、後戻りはできない訳だからこのまま、「最期の時」を迎えるまでには、どうにか折り合いをつけ、「まあ、それなりに良い人生だったのではなかろうか」と言うことにしたい。


 悔やむことはある。大きく二つ。


 主人の死後、同じ場所で生きることをしなかったことがその一つだ。


 そして一つの仕事を定年まで続けられなかったことが、二つ目になる。 

 自分の人生を「やり切った!」と清々しい思いで終わらせられない生き方をしたことが…

 人生、途中にして…

 諦めて逃げてしまったことが・・・

            少々悔やまれる。


 しかし、

 諦めるには、諦めるべき理由も存在した訳である。



 主人が遺した多額の借金が想定外だった。




 一気に、主人と家を失った。

  

 二つの大きな大きな想定外!!


 それは…

 私の人生を変えるほどの理由だと言ってもまだ余りあるものがある。


 時間は過ぎた・・・

 

 私の動かない心をそのままにして…


 しかし時は動き変わっていく。


 そのうち…

 私は変わらなくても…

 少しずつ少しずつ大切なものが増えていった。

      少しずつ変わっていく・・・

 


 少しずつ動き出した心は…


 いつしか…

 無くなったはずの未来を・・


     見ようとしているようだ…

死別者であることの否定

死別後を・・・ 


 哀しみながらも「貴方の分まで…」と、背筋を伸ばして自信を持って生きることができなかった。


 できれば…

 死別者だと分からないように…

 配偶者が「亡くなった」と言うことを知られないように…

 何故かそんなふうにして生きてきてしまった。


 どうしてそんな生き方をして来たのだろう…か。

 自分を恥じるような生き方をする必要なんてなかったはずなのに・・・



 それは…

 「主人は幸せだったんだ!」と胸張って言える自信が私にはなかったからだと思う。


 好きで好きで一緒になったけれど、私はいつの日からか娘と自分の仕事のことだけに一生懸命になった。


 主人は持病を抱えていたのにそのことを真剣に考えなかっただけでなく一緒に闘おうともしなかった。

 そして、

 私の最大の問題は「嫁」になったと言う自覚の無さにあった。私はあくまでも私であって、主人の妻で娘の母でしかなかった。


 そんな私自身の考え方に…

 若すぎた「主人との死別」が重なり…

 私は、全てのものから遠ざかる決意をしてしまった。


 そんな生き方をせずにはいられなかったのだ…。